平和記念公園の火を消すこと
8月25日の朝から広電で本町小学校や原爆ドーム、レストハウスに行ったりして昼過ぎに原爆資料館に行った。
原爆資料館は被爆者の服や破壊された街、いくら原爆の酷さを展示していたが体制が作ったものに変わりはない、そして僕にはそれは被害者であり続けたい体制に利用されているようにしか見えなかった。
当事者の気持ちになることはできないだろう。幼い子どもが亡くなっても僕が知っている人でもないし、ロシアウクライナ戦争でもそうだろう。
どこか現実的ではない。
理想は平和記念公園の火を消すこと。つまり、核兵器を世界中から無くすことだけれども
被爆国である日本でも昨今の対中国の情勢を踏まえて、アメリカとの核の共有をやろうとしている。
平和記念公園の火が消えたときに太平洋戦争は終わり原爆ドームと広島の平和記念公園の必要性についてみんなで考えるべき時が来ると思う。
僕がライ麦畑でつかまえて
最近ビートルズをよく聴くのだけど、最初に聴いたのは中学の英語の授業で聴いた”イマジン”だったと思う(正確にはビートルズの曲ではない)。当時読んでいた、東野圭吾の”ナミヤ雑貨店の奇蹟”という小説にもビートルズを聴いている少年が出てきたのを覚えている。
安倍が射殺されたときも、ビートルズのリーダーのジョン・レノンがマーク・チャップマンに射殺されたのを思い出した。射手のチャップマンは"ライ麦畑でつかまえて"の(熱心的な?)読者であった。
僕が”ライ麦畑でつかまえて”と出会ったのは17歳の冬だったと思う。主人公のホールデンとは一つ違いだ。
内容は一度読んでほしいのだけど、簡単に紹介する。
成績不良でペンシー高校を放学となったホールデンは、寮のルームメイトと女の子を巡って喧嘩になり、寮を飛び出し故郷の街ニューヨークに戻る。そして、家に帰るまでの数日間ニューヨークの街を放浪する話だ。
”ライ麦畑でつかまえて”ではホールデンは子供の純粋な気持ちが良いこととされた、極端に言えば利他的なものが良しとされた。利己のために誰かを欺いたり、建前だったり、忖度だったりをインチキっていう。誰かに忖度して褒めたり。建前だけのありがとうだったり、ごめんなさいを言ったり。誰かの厚意を利用して利益を得ようとしたり。ホールデンはそれらに反対しており、そんな社会なら僕はこの社会の異物でいようと考える。
ペンシーでは土曜日の夕食はいつも同じ献立で、いちおう「ご馳走」ということになっている。ステーキが出てくるからだよ。千ドル賭けてもいいけどさ、それは日曜日に生徒の親がたくさん学校を訪ねてくるからなんだ。サーマー校長はこう考えたに違いない。母親たるもの、きっと最愛の息子に「ねえ。昨夜のご飯には何が出たの?」って尋ねるはずだってね。すると子供は答えるわけだ、「ステーキだよ」ってさ。そういうのってまったく詐欺みたいなもんだ。
キャッチャー・イン・ザ・ライ 村上春樹訳
ジョン・レノンは”イマジン”で何も所有しないなんて言っていた。欲張ったり飢えることも無いって。しかし、自分はいい家に住んで、美味しいものを食って安全な場所からそれで、貧困をなくそうだとか戦争をやめようだとか、なんて言ってることがチャップマンはインチキだと思ったのだろう。
それを世間に示すため、"ライ麦畑でつかまえて"が犯行声明文なのだろう。
ホールデンは理想と違うこの社会(資本主義)のすべてが気に食わないが、自分も欲だったり(小さな見栄を張りたい気持ち)だったり負けて、嘘をついてしまう。
その理想と言うものは大人になるにつれ薄まっていき欲に塗れた汚いものになってしまう。
絶対的な権力は絶対的に腐敗する
全ての権力を疑おう。全ての権威を疑おう。
法律とか規則とか言うものは、元を辿ると村の掟だし、税金も元を辿ると村のカンパだ。村の掟は個人と共同体の幸福のためのものであり、それで不幸になる人が出てはならない。カンパも自主的なものであり、強制されるものではない。ましてや、それで生活が苦しむ状態になってはいけない。
規則というものは守るものではなく、守らせるものである。村の場合は”村八分”と呼ばれる暴力で、国家の場合は”警察”と呼ばれる暴力で。
"反民主主義と反国家主義について"で述べたように国家というものは資本家に支配されており、国民の知らないところで法律も資本家に都合の良いように作られている。そして、暴力によって守らされている。僕たちは生まれたときに法律を守りますよなんて同意した覚えはないし、守らなければならない根拠なんて言うものないのだ。
自由と民主主義なんて言うけれども、国家が存在する限り、自由も民主主義も存在しないのだ。
だから、僕たちは盲信してはいけない。
常に権力と権威を疑おう。
郷土愛と三里塚
僕が三里塚を知ったのは、中学生のころに、宗田理の"ぼくらの南の島戦争"という小説を読んだことがきっかけだ。
”ぼくらの七日間戦争”の続編で七日間戦争は知っている人も多いと思う。
南の島に旅行に行った主人公(中学生)たちが島の住民とともにその島をリゾート開発しようとする建設会社と戦争をする話だ。
そこから、蜂の巣闘争や三里塚闘争などについて調べるようになった。スマホもパソコンも持ってなかった僕は、図書館でパソコンを借りて各建設反対運動の歴史とかをゆるーく調べていた記憶がある。
当時、田舎の父親の実家で療養していた僕は田舎の人たちの郷土愛を感じた。氏社は神主の居ない小さな神社だったが、いつ行っても綺麗に清掃されている。
そんな故郷を「じゃあダム(空港)を建設するで出ていってください」なんて言われても、いくら金を積まれても嫌だし出ていかないだろう。お金をいくら積んでも一度割れた茶碗のように二度と故郷は元には戻らないのだから。
そして、当時の僕は三里塚や蜂の巣の運動を利己主義者、金儲け主義者から故郷を守るための運動だと見たわけだ。いまでもそう思っている。
都市に住んでる人たちが使うものなら都市に作るべきだろう。
行政代執行による土地収用もおかしくて、その土地に住んでる人がだめだと言ったらだめなのだ。
一年ほど前に福岡天神で石木ダム建設反対の運動をされている方がいた。
忘れていた、郷土愛というものを思い出させてくれた。
天皇の下で民は平等であり
現在の天皇は資本家たちによって、操られており、これらは革命的共産主義者の天皇の廃止論につながっている。
天皇は国民のために存在しているのであり、国民が天皇のために存在しているのではない。明治維新で建設された西洋の王室を模範とした天皇制は粉砕されるべきだし、天皇は宗教者として国民の幸福と豊作を祈るものである。
昭和天皇は反共産主義社会主義革命を資本家とともにぶち壊したわけだが、
天皇の下で民は平等であり
天皇の下で民は平等であり、それは男も女も共産主義者であっても漢民族であってもだ。
"八紘一宇"という言葉がある。"八紘一宇"とは世界は一つの家族であり兄弟であるということだ。日本帝国はこれらを侵略戦争への正当化につなげたが、これら侵略戦争は誤りであった。侵略戦争ではなく、欧米からのアジア植民地の解放のための戦争であるべきであった。
"神武天皇の「八紘一宇」の御勅令の真の意味は、天地四方八方の果てにいたるまで、この地球上に生存する全ての民族が、あたかも一軒の家に住むように仲良く暮らすこと、つまり世界平和の理想を掲げたものなのです。"
橿原神宮について(https://kashiharajingu.or.jp/about)より引用
日中戦争は腐敗した中華民国政府から中国人民を解放するための戦争だと言っている輩がいたが、黒塗りの部分をなかったことにするのが愛国ではない。