ポルトガルの革命


ポルトガルの革命

ウィルフレッド・バーチェット (著),田島 昌夫 (訳)

1974年に起こった将校らによる、植民地戦争の政治的解決を目指す国軍運動、カーネンション革命によりエスタド・ノヴォ体制下での市民の様子が明らかとなった。

以下引

 

アレンテジョの農業労働者マヌエル・バサンの「小屋」

ポルトガルで会った忘れがたい人びとの一人に、四十九歳の農業労働者マヌエル・ジョアン・パサン がある。痩せがたで、背もあまり高い方ではない。日焼けした、しわの深い顔に、鋭い目が光って いる。一方の耳がまったく聞えないのは、PIDEに殴りあげられたためだ。

マヌエルは、自分の「小屋」に私を招待した。彼はこれを、この地方の不在地主から賃借しているのだが、窓も煙突もなく、上、下水道もなければ、灯火もない。 わずかに、屋根のタイルがこわれて、 そこここにあいている隙間から射しこんでくる光があるにすぎない。地面を踏み固めただけの床のところどころに凹みができていて、数日前の雨が屋根の隙間からしたたり落ちた場所を示している。ウサギが四、五羽、外のウサギ小屋で押し合いへし合いしており、七面鳥も何羽か、庭で土を引っ掻いていた。

 

彼の「小屋」は、だが、この町では少しも珍しいものではない。私はほかにも何軒か訪ねてみたが、みな似たりよったりだった。ここはモンテモロ・ノボから十キロあまりの、魅惑的な小さな市場町で、 町はずれの小高い丘には、壁をめぐらした中世都市の廃墟がそびえている。その城塁の建造年代はローマ時代にさかのぼるという。私たちは、ポルトガルでもっとも豊饒な農業地帯の一つ、上アレンテジョ地方の心臓部にいるのだ。

二人が会ったのは偶然だった。 一週間前、モンテモロノボで新評議会選出の集会があって、その あと夜なかまでビールを飲んだときのことだ。マヌエルは私に、一緒にうちへ来て、この地方の農業労働者の暮しや仕事ぶりをあんたの目で見てくれと言って、引っ張って帰ったのである。 「ここらへんの労働者はですね、」と、彼は、まず大体のようすをと質問した私に答えて、話しはじめた。「いってみりゃ、ただの、物ですよ。鋤や牛同然にこき使われる対象で、どだい人間だとは考えられてもいません。わしらの労働者としての立場を定めた法律一つもありゃしません。なにからなにまで、大土地所有者の不在地主の気まぐれのままです。保護など一切ない。労働契約を結ぶ能力も、法律からいえば、わしらにはないんです。雇うのもクビにするのも、毎日の賃金も、ぜんぶ親方が決めます。親方が、こいつもう役にたたんと思えば、何年働いた労働者でも、その日からお払い箱です。それをチェックしてくれる防壁はなんにもないし、失業したからって一銭の援助もありません。

 

「このあたりでは、年に九ヵ月仕事があれば御の字で、ほかの月は、全然無収入です。この四、五年 の間に、何万、何十万の人間がここから移民に出て行ったのも、そのためです。移民といえば、もと はたいてい北部からときまっていたもので、このへんから出るようになったのは七、八年前からです。 毎年何千人も出て行けば、残ってる者の条件が、そりゃ多少はよくなります。年に何日か、前よりも 余計に働けるとかですね。でも毎年三、 四ヵ月は失業という状態は、あいかわらずです。
「ここでは、賃金もそりゃみじめですが、その賃金でさえ一番の問題じゃないんです。一番の問題は、慢性の栄養失調です。商店街や市場から遠く離れてるし、あちこちに散らばって暮してるもんですから、かりに買うぜにがあるときでも、肉や魚、ミルクや果物が手に入りにくい。小屋のまわりに自分 で作っているわずかな野菜と、パンとオリーブと、そんなもので命をつないでるんです。それにときたまウサギがつく程度です。」

 

寄生的大土地所有者たちの生態

 

モンテモロ・ノボは、行政上ではエボラ県 (国内に十八ある県の一つ)に属する。 エボラ県とポルタレグレ県をあわせて、上アレンテジョになる。 エボラ県の県都エボラ市は、白い石造建築と丸石をしきつめた街路がよく調和して、美しいアンサンブルをなしている町で、その歴史は古く ーマ時代にさかのぼる。市中心部の丘は、紀元二世紀、ローマ人がダイアナに捧げた神殿があったと ころで、縦溝のあるコリント式円柱の保存のよさは驚くばかりだ。その丘から見渡すと、豊饒なアレ シテジョの大平原が目路のかぎり続き、成熟期の小麦畠が広がる間にオリーブの森が点々と見える。 

 

アレンテジョを車で走っていると、ハンガリーのホルトバジが思い出されてくる。やはり果てしも ない大平原で、そこここに点在する池や湖の水面には野生のカモが群れ遊び、それがときおりの銃声 に驚いて、いっせいに飛び立った。貴族的な不在地主の絶対支配下にあることも、三十年前のハンガ リーと変らない。自分の荘園の差配人といるよりもカジノにいる方を気楽に思い、荘園で鍬をふるう労働者など見向きもしたことのない大旦那たち、それもこれもみんなそっくりだ。

 

エボラ県は他に比べて、大土地所有者の人数がもっとも少なく、それでいて、その所有下にある土地面積がもっとも大きい県である。 荘園主の数に対する農業労働者の数の比率も最高である。 エボラ 県内の郡の一つであるモンテモロ・ノボ郡では、この現象がとくにいちじるしい。地元官庁が公表した権利証書(四・二五以前は秘密とされていたもの)にもとづく調査によると、エボラ県内で農業に従事する者のうちで、自分の土地をまったく持たぬ者が九四パーセントであった。残る六パーセントのうち、五パーセントはきわめて零細な土地しか持たず、ある時間自分の土地を耕作し、別の時間には大土地所有者のもとで働いていた。最後の一パーセントが大土地所有者であった。 「この零細地主というのは、」とマヌエル・パサンが説明した。 「国と大土地所有者との間で締め上げられて、お先まっくらな状態です。 例えば、小麦の生産に国から補助金が出ていましたが、これが、 大地主の手に入るだけでしてね、大地主連中は補助金を取りはするけれど、小麦作りに頭をつかうとなんぞ、まずありません。 補助金はポケットに入れて、もっと儲かりそうなところへ投資するのが落ちでした。ほんとうに小麦を作りたいと思っている零細地主は、生産近代化のためにこちらこそ資金が必要なのに、その必要がかなえられない。なにしろ金は全部、大地主の方へ行ってしまってるんでね。そういうわけで、せっかく国から補助金が出ても、それももとはといえば国民が払った税金な のに、穀類生産の近代化とか増産にはまるで役立たないで終ってるんです。

 

「多くの不在地主の収入源は、おもにコルクです。 コルクの木というのは、何百年も昔から、ずっと そこに立ってるわけですね。地主はそのために一銭もかけたわけじゃない。維持費だって知れたもん です。枝の刈り込みの手間賃が年に何時間分かと、それにプラス、九年ごとに樹皮を剥ぐ――つまり、 毎年、林の九分の一ずつを裸にするわけですが、その経費と、ぐらいなものです。樹皮を剥ぐ仕事で 労働者が受け取る労賃は、一本当り約三百エスクードですが、それを売って地主に入る金は、運賃を引かなきゃなりませんが、およそ四千エスクードです。荘園主たちにしてみれば、無際限の輸出市場があるコルクで十分ぬくぬくとやっていけるのに、なんでわざわざ自国民のための食糧生産などに頭を悩ますことがあるか、というわけですよ。 大旦那連中のものの見方というのは、そういうものなん です。 小麦の補助金もポッケに入れる、コルクの利益もポッケに入れる、投資はおことわり、とね。 何百年か前に連中がコルクガシの林を乗っ取ったのだって、何年か前に共有地を乗っ取ったやり方と 同じことだったでしょうよ。」

三里塚闘争の自己総括

15日の未明に共同通信のニュースで本日代執行だと知り、急ぎ新幹線で駆けつけた。その三里塚はいつものようにほのぼのとした日常が広がっていて焚き火を囲ってみんなでご飯を食べたりした。
夜になり突然と機動隊が現れあっという間に皆敷地外へ追い出された。僕たちはシュプレヒコールを上げることしかできず、そこには目を瞑れば耳を塞げば幸せに生きられるのではないか、僕たちの日常の幸せは誰かの不幸を見て見ぬふりをして成り立っているのではないか、都市の住民の幸せは農村の不幸の上に成り立っているのではないか、といろいろと考えてしまう。結局のところ何もできない絶望が僕を襲った。

吉野陽向 2022年2月18日

災害と伝統について

ダムの建設で大分県下筌ダム長崎県の石木ダム、奈良県の大滝ダム、群馬県八ッ場ダムなど建設を巡って大きな反対運動が巻き起こり、未だに着工できていないところもある。 反対運動の理由として大きなものは故郷を破壊されて得られたダムの利益(発生する電力や水資源)の多くのが都市によって吸い上げられることであろう。しかし、ダムの目的はそれだけではない。河川の水量調節を行い洪水などを防ぐ働きもある。

反対運動は先程も述べたように故郷に対する、伝統的な愛郷心から来ているものが多い。そして、昔ながらや伝統に訴えることが多い。 しかし伝統を重んじるものは茅葺屋根の家に住んでいるかといえばそうではないし、耕牛を使っているかといわれればそうではない。良い面だけを伝統と称して持て囃し、悪い面を無かったことするのは少しおかしな話ではないか?(良し悪しでは無く許容できる不便さか許容できない極端な不便さかなどの分け方がいいかもしれない)

ダムや堤防が国の公共事業として行われるまでの水害も伝統に含まれるのではないだろうか?そうでないのであれば伝統を盾にした反対運動はダブルスタンダードなのでは?

靖国神社に行ったときの話

いまはこう右か左かわからない運動をやっている。

もとは右の世界にいたが、その前の話である。

コロナ前の8月15日昼過ぎに僕は友達と秋葉原駅で別れて、中央線で飯田橋駅に向かった。駅を出て角川の本社の横を通り過ぎると第二鳥居のあたりに出た。1年前頃からTwitterネット右翼自民党支持というより、反左翼の傾向が強かった)をやっていた僕はキラキラとした眼差しで、靖国神社の鳥居を見上げた。それはインターネットで見ていたものと同じものだった。

靖国神社は人でごった返していて、人人人といった感じで、中年の男性が多かったがそれは僕に安心感を与えた。それは、当時にメディアや行政が左翼に支配されていると信じていたからである。

僕は参道で楠の苗木を貰い、10分ぐらい並びやっと拝殿にたどり着いた。拝殿前で手を合わせ、口には出さなかったが対米自立とアメリカへの復讐を誓った。

愛国者はみんなそう思っていると考えていた。

日本の政治を国民から委ねられてるのは自民党であるが、ここ30年はずっと不景気である。それは自民党アメリカのせいであると考えていた。(アメリカが日本を搾取しているから貧しくなっているのだと思っていた)

ニュースでは午前中にN国の丸山穂高が参拝したと見た。遊就館に入って、ゼロ戦の撮影をしているとN国の立花孝志が遊就館に入ってきて周囲がざわついた。何人かが並んで記念撮影をしてもらっていたので僕も並び記念撮影をしてもらった。

遊就館は当時の僕でも偏ってるなと感じる展示が多数あったが、軍事博物館でそんなものだろうと流したけど体制ってそういうものじゃないか、都合の悪いものは隠すものなんだよ

参道を後退し九段下の駅に向かう途中、公道にでた途端たくさんの人からビラを渡された。僕は感動して泣きそうになった。

北の国から

稚内駅からバスに乗り稚内市樺太記念館に向かった。
そこでは、南樺太は40年の短い歴史と悲劇的な最期をもってロマンティックに語られる。
しかし、それらは多くの屍の上にできていることに大泊港の整備の説明書きを見ている際に気が付いた。
20年代の内地での不景気の中、北海道、樺太は人手不足が深刻であり多くのものが北の大地に渡ったようだ。主には東北地方の貧しい農民が多かった。朝鮮からも多くの者が出稼ぎに来ていたようだ。
当時の北海道での強制労働、タコ部屋労働の様子は記されているが、樺太での強制労働、タコ部屋労働の話は聞かない。石北本線の常紋トンネルの話は有名であろう。当時の鉄道建設は過酷でありそれら北海道の話を鑑みるに樺太での強制労働、タコ部屋労働もあったのであろう。そして、それらは言葉にならずロマンティックな話の中に埋もれている。

僕がライ麦畑でつかまえて

異性交遊は大人への入口であり、社会への服従の対象、そして憧れの対象でもある。しかし、子供でなくなることの恐怖から内心は対立しており、ホールデンはエレベーターホールに売春を誘われ、一度は承諾するも断るのである。
他の事象でも、大人への憧れと子供でなくなることの恐怖が対立している。
見栄を張りたい欲望と純粋無垢であるべきだという考えは対立している。
世の中で生きていくためには妥協が必要で、建前も必要である。悪意のある詐欺まがいのことも必要悪とされる。
これら、大人の社会は俗物的で欲に塗れ汚く内心で対立しているようにホールデン自身もそれに侵蝕されかかっている。だからこそ、妹のフィービーなど、幼い純粋無垢である子どもたちがライ麦畑で遊んでいるときに崖から落ちないように捕まえるのが僕のやりたいことだと言う。 

女装におけるのりこえの理論

それを女装であると定義した時点で女装をのりこえることはできない。他の女装をのりこえる為には女装という概念ののりこえが必要である。 それが女装であり続ける以上、他の女装と同等の価値しか持たないのだから、それを女装の更に上にあるものと定義しなければならない。それこそが女装ののりこえであり、男性がレディースを普段着として自然に着こなすことである。